演奏のたとえ

今日のドイツ法は先生がすごく熱かった。サヴィニーの議論を解説していたはずなのに、そこから一歩進んで法学に対する考え方にも踏み込んでいた。

そもそも発端は「サヴィニーは法学について「感じる」という表現をしているのですが・・・」から。ここから先生の意見が始まった。
以下、正確な要約ではない可能性があるが、引用表記で。

この考え方は、われわれが今している分析的なやり方とは異なり、むしろ日本の古典芸能の学び方に通じるものがある。というのも、日本での西洋音楽の学び方は楽譜・楽器の扱い方から入ってしまうが、伝統芸能においては真似ることがすべて。長年かけ、やっとつかむものである。
この点、音楽の真髄は楽譜に載ってないことをいかに教えるか、演奏者が楽譜に何を付け加えて演奏するかと言う点にあるとすれば、伝統芸能の手法の方が適切なのではなかろうか。


法学についてもこれは同じで、サヴィニーはそのことが言いたかったのではないか。たしかに楽譜を読み解き使いこなす能力も必要だが、1つのステップを越えるためにはー判例を乗り越えたり、先を照らす学説を書いたりー、ある種のセンスが必要である、と。

実は、同じような話を以前に聴いたことがある。
行政法助教授が「私が教壇でしていることは、私がどのように判例を読んで解釈するか、というやり方、いわば演奏を見せていること。どう弓を引くか、ということではない」と仰っていた。*1
まあ彼もこのドイツ法の講義を聴いていたはずなので、同じようなことをいったとしてもあまり不思議じゃないのだけど。


思う点があるのでコメントしておきたい。
まず、楽譜のたとえについては(一応はピアノをかじったものとしては)かなり賛成。高校時代に私は武満徹氏の一連の著作から彼の音楽に関する考え方、西洋と東洋についての考え方をレポートにまとめたことがあるのだけど、そこで一番頭に残っているのは楽譜の発明の功罪。楽譜ってものがあると、素人判断ではそこにすべて書かれているのかと思うけど、実は全然そんなことはなくて・・・そもそも、楽譜は「12音律」という音の世界を無機質に周波数でぶった切ったものを前提にしないと存在し得ないわけで、画一化の所産。しかしそれがためにメロディーラインを記述したり、記録したり、重層的にしたりという作業が可能になった。しかし、それを尺八とか、ディジリドゥー*2と比較すると、記述できない音の幅があるわけで、それを無理やり「正しい」音におしこめずにはすまないのが楽譜になれてしまったわれわれの悲哀でもある。
・・・あ、音楽のことで書きすぎた。


判例を読むとか、学説を読むとかいうのもこれと同じだと先生方がいうのなら、読み方を気をつけないといけないですね、ますます。既存の学説・評釈に書いてあることに振り回されず、事案の色んな側面を、「楽譜」が取りこぼしてしまった音の隙間にも配慮しながら、読んでいく作業。それができるだろうか?う〜ん・・・。

*1:こちらも恩師と呼びたくなる人。「恩師」ということばを自分がどのような趣旨で使うかについては、いつかエントリ立ててコメントします。ちなみに、この発言は「先生はどのような考えで授業をしているのですか」という質問に答えたもの。

*2:シロアリが開けた穴をそのまま使った楽器